寄 稿
世界化学年と放射線とキュリー夫人
岐阜薬科大学元教授 窪 田 種 一(専12)
本年(2011)は国連が定めた世界化学年です。
2005年の世界物理年、2009年の世界天文年の記念事業を受継いだものと思います。
世界化学年はIUPACの前身、国際化学会連合 (IACS)の発足から100年になると共に、マリー?スクウォドフスカヤ?キュリー夫人が女性初のノーベル化学賞を受賞(1911)してから100年になるのを記念したものです。
女性の自然科学への貢献を祝福し且つ期待しています1) 実はキュリー夫人は、夫のピエール及びベクレルと共に、1903年にノーベル物理学賞を受賞しているのです?放射線を最初に発見したのはフランスの物理学者ベクレルです(1896)。
彼はウランの出す放射線によって写真乾板が感光する事を偶然に発見した。
キュリー夫妻はこの正体を明らかにする為に、8トンものピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)を化学処理して、放射線を出す元素、ラジウム88Ra 1g を抽出することに成功したのです(1898)。
かくして原子は放射線を出して崩壊し得る事を明らかにした業績によります2) マリー?キュリー夫人は、事故で夫を亡くした後もこの種の研究を続け、放射性元素ポロニュウム84Po(これはマリーの故国ポーランドより取った命名です)の発見及びラジウム化合物の研究で1911年にノーベル化学賞を単独で受賞したのです。
これで彼女はノーベル物理学賞と同化学賞を夫々受賞した稀な研究者です。
尚RaもPoも安定同位体は無く、幾つかの質量数を持った同位体として存在します。
放射線
原子核の放射壊変によって放射される放射線には3種類ある。
α線はヘリウム原子核の放出であり、γ線は電磁波です。
これ等の機構は、これまでの研究で合理的に理解されている。
問題はβ線で、高速の電子の流れです。
中性子が陽子に変わるときに放出される、素粒子(中性子も陽子も核子と言われる素粒子です)の反応でも、反応の前後でエネルギー及び電荷の夫々の総和は保存されるのですが、β崩壊ではエネルギーの保存則が成立しない事が解っていたのです。
この原因を色々調べた結果、実は電子と共に後述の反電子ニュウトリノ(ν(-)e)と云う素粒子が放出されていることが解り解決した。
これと関係して、原子核内には電子は含まれていないのに、なぜ電子が放出されるのかと言う素朴な疑問もあった。
そしてこれ等の研究が素粒子論を大きく進歩させました。
陽子?中性子の構造と素粒子
原子核は陽子と中性子から成立っていると教えられてきた。
その後これ等粒子の内部構造について実験及び素粒子論の両面から活発に研究された。
1964年以降に発展した「クオーク」モデルが今や確実なものとなっている3)。
現在知られているフェルミオン(電子のようにスピン量子数が半整数の素粒子や複合粒子)である素粒子にクオークとレプトンがある。
ノーベル賞の小林一益川理論で予言されたように、クオークは6個ある。
第一世代、第二世代、第三世代に分けられ、各世代に2個存在する。
一方各クオークは電荷が2e/3のu型クオークと、-1e/3のd型クオークに分けられる。
軽粒子と言われるレプトンも6個存在する。
電荷が-eのものが3個あり、上述の各世代に1個ずつ存在する。
これに反して電荷を持たない上に、質量が有るか無しかの非常に軽く透過性の大きな、中性のニュウトリノと言われるレプトンも3個あり、各世代に1個ずつ在る。
また各素粒子には電荷が正反対である以外は同じ特性を持つ反粒子が存在する。
電子と陽電子(反電子)がその例です。
さて第一世代に属するのがu(アップクオーク)とd(ダウンクオーク)で、レプトンでは電子(e)と電子ニュウトリノ(νe)です。
ここでu,d,eの3者によって我々を取巻く物質が構成されていることは注目すべき事です。
陽子は(uud)なる3個のクオークからなる。
電荷は【2×(2/3)-(1/3)】eで+1となる。
中性子は(udd)からなる。
電荷は【(2/3)-2×(1/3)】=0となり中性です。
一方色々な形の相互作用を媒介する素粒子が存在する。
これはボソンと言われてスピン量子数が整数の粒子です。
クオーク間を結びつけるのはグルーオン(glue糊からきている)と言う素粒子の交換によって起る。
β崩壊を媒介するのはウイークボソンと言う素粒子で3種類ある(W+、W-、Z0)。
クーロン力のような電磁的相互作用はバーチャル光子(フォトン)の交換により引起される。
このように素粒子間の相互作用を媒介する粒子をゲージ粒子と総称されている。
β崩壊の機構
では問題になっているβ崩壊はどの様な機構によるのでしょうか。
これを媒介するウイークボソンは大きな質量を持っているため、その力の到達距離は非常に短くなる。
このため実際の相互作用は弱くなり、弱い相互作用と言われる。
中性子(n)の陽子(p+)への変換は図で示される(ファイマン図)。
左側の反応点ではnがp+に変わる(d→u)と同時にウィークボソンW-を放出する。
右側の反応点でW-の消失と共に電子e-の放出と同時に反電子ニュウトリノν(-)e(中性)が生成する。
即ちn→p++W-、W-→e-+ν(-)eが起り、全体としてn→p++e-+ν(-)eが引起される。
これでエネルギーが保存されると同時に、電荷も保存される。
更に、ここで関係する素粒子は皆第一世代の粒子であることに注目したい。
【(註) レプトンにはレプトン数と言うのがあって、レプトンには+1、反レプトンには-1が与えられる。
素粒子反応では反応の前後でレプトン数の総和は保存される。
e-は+1、ν(-)eは-1ですから、この和はレプトン数0となり(対生成4))β崩壊は成立する。
尚、示した図(ファイマン図)で、反粒子の生成は下向きの矢印で示されるのが普通です】。
Ra発見の意義 Raがキュリー夫妻によって発見されて間もなく、1900年の始め頃からRaの放射線による癌治療が始まっている。
日本で本格的な放射線治療が始まったのは1934年頃からと言われている。
この頃に初めて癌研へRaが導入された。
第2次大戦後はCoやIrに変わり、Raは殆ど使用されなくなった。
現在は陽子や炭素イオンの原子核を高速に加速した重粒子線を患部に照射する粒子線治療にまで進んでいる5)。
一方Raの放射能の発見は、不変とされていた原子が壊変する場合のあること示した。
そして原子の内部構造の研究が進展した。
1908年にノーベル化学賞を受賞したラザフオードがα線、β線を発見し、ラザフオード散乱によって原子核の存在を発見して以来、原子核や原子?分子スペクトルに関する実験と並行して素粒子論、量子力学、量子化学などが急速に進んだ。
これ等を考えるときRa発見の意義は非常に大きいと思う?今年の世界化学年が女性化学者であったマリー?キュリー夫人と関係していることは良く理解できる。
― 文献 ― 1)世界化学年日本委員会が出来ており、色々の行事が企画されている。
次のホームページに詳しい。
http://www.iyc2011.jp/schedule-j.html 2)池内 了 ノーベル賞で語る現在物理学 KK新書館 2008 東京 3)京極 一樹 こんなにわかってきた素粒子の世界 技術評論社 2008 東京 小林 誠 消えた反物質(ブルーバックス)第4冊 講談社 2008 東京 南部 陽一郎 クオーク 第2版(ブルーバックス)第9冊 講談社 2008 東京 村山 斉 宇宙は何でできているか一素粒子物理学で解く宇宙の話 幻冬社2010 東京 4)他方中性子や陽子などはバリオン(重粒子)と呼ばれる。
バリオンについてもバリオン数が存在する。
陽子、中性子などのバリオン数は十1、反陽子、反中性子などのそれは-1です。
バリオン数の総和は反応の前後で保存されます。
5)朝日新聞 1998/10/30 朝刊記事[ラジュウム発見100年シンポー放射線の発見と利用]より。
(註)「原子のなりたちと化学」と言う素粒子論的見地よりのReviewがあります。
興味のある方は連絡下さい。
連絡先 tykbta@k2.dion.ne.jp
懐かしのギター
鈴 木 博 之(専16)
私が薬剤師免許証を手にしたのは昭和二十七年だからもう半世紀以上もその道をあるいてきたことになる。
私が薬学を志したのは太平洋戦争直後の大混乱期の頃で、人は皆生きるため食べることのみを考え人間としてとゆうより動物として生きるとゆう時代でありました。
当時私の一家は戦火をのがれて岐阜県養老の山中で暮らしており食糧が乏しくて周りに生えている野草で食べられるものはすべて食べつくしました。
ヨモギ?タラ?ハコベ?アザミ?アケビ...それとゆうのも山村に暮らす村人から野草について食べられるもの、薬になるもの、毒になるもの、薬草の使い方など、生きるための知恵を多く学んだためにできたと思います。
木を切り根を堀りおこし岩を除いて山を開墾して少しばかりの畑を作りそこへサツマイモを植えました。
なにせ痩地故に収穫できた芋は小指ほどの太さで、まるで皮とすじを食べているようなものだった。
しかし葉やツルは周りの野草にまけぬくらい立派に育ち有難く食しました。
やがて終戦を迎え山中で暮らす必要もなくなり大垣へ出てきたものの食糧不足は相変わらずで、やがて栄養失調になり病気をなおす力を失って医者からも見離されてしまった。
そのときアメリカ兵からもらった10粒程の薬で一命をとりとめ、そのことがきっかけで何としても薬をつくりたいとの思いが薬学ヘ進む動機となりました。
開墾地時代に、その一角に小さな小屋を立てそこで木工作業をしている人がありました。
そこへ出入りするうちにその人と親しくなり手製のギターをもらいました。
その人は桜の木をつかってスキーを作り当時伊吹山でスキーを楽しんでいたアメリカ兵に売っていました。
ものが無い時代でそれが飛ぶように売れていました。
その人があの有名なミズノスポーツの元祖であることを知ったのは東京オリンピックの后でした。
その方の手作りのギターを手に青春歌謡を口ずさんでいた頃が懐かしくおもえる昨今です。
私のモットーは「生涯現役」ですが八十を過ぎた現在も薬草をこよなく愛し薬局を営んでおります。
化学と友禅染(色?いろ?彩にはまって)
嶋 野 和 子(大10)
はじめに 「本職の他に趣味を一つ極めなさい。
あなたの老後が心豊かな人生となります」の一節に心が動き、色作りの面白さにはまって、日本古来の技法による手描き友禅を続けてきました。
染色は多くの化学反応に支えられていても、経験と感性の世界、自然の中の空気、水、光、気温、湿度の関与する割合が高く、何か目に見えないものが染色製作を授けているようなそんな世界です。
卒業直後、一日の時間配分は薬:その他は2:8でしたが、六十代にして、本職:趣味の時間は逆転して8:2となりました。
医薬分業も定着し、調剤に、また介護保険のケアマネジャーにと仕事に追い回されていても、わずかな趣味の時間は、やはり心豊かな老後のような気がいたします。
一枚の着物が染め上がるまでのプロセスを追いながら、三十数年の私の染人生を紹介させていただきます。
①意匠考案(図案作成) 小さな下絵で想いを起こし、原寸大の紙に白描文様を写す作業で、ここに一番時間をかけます。
②仮絵羽された白生地に青花という色素で下絵を写す作業 ③下絵に従って糊で描き起こす作業 今はゴム糊で簡便化されていて、まるで印刷のプリント模様に思えます。
昔ながらの澱粉糊は強弱、太細、リズム感など作者の心が豊かに注ぎ込めます。
技術が伴わなくても私は澱粉糊を使います。
5年間構想を練り続けた作品 (例)糸目糊の化学 澱粉糊にテキストの2倍のZn末を入れると、糸目が盛り上がって色がはみ出さない防波堤を作ります。
Zn末が多すぎると線にひび割れができ、染料のしみ出しが起こるため、テキストの3倍のグリセリンを混合し、ひび割れを防ぎます。
5年間構想を練り続けた作品 (例)豆汁(ごじる)の化学 大豆の蛋白質に熱と水分が与えられると、凝固して水に不溶な物質となり、染料を生地に固定します。
④部分彩色のための地入れ作業 ― 豆汁を刷毛で生地に引きます。
⑤文様部分の彩色作業 ― 感性の出しどころです。
⑥空蒸し作業 ― 文様部分の彩色後20~30分蒸して生地に染料を定着させます。
(例)熱による色の化学変化 黒味をおびた赤が鮮やかな赤に、渋めの黄が自然の黄に変色。
(例)微調整で完璧な地色作り、蒸しあがった着物が時には大胆に変色。
そんなとき、かえってこの色の方が良かったと納得できるのが不思議です。
蒸しにより大違いの色に(失敗しても返って成功)ロンドンでの作品展に出品 ⑦伏せ糊で文様部分を防染する作業。
⑧地染のための地入作業 ― 豆汁を刷毛で生地に引く作業 蒸しにより大違いの色に(失敗しても返って成功)ロンドンでの作品展に出品 ⑨地染め、⑧の地入れ後、大きめの刷毛で反物全体を引き染めする作業。
(例)自然の不思議 春の野草花をつけて若草色に染めた反物に天道虫が止まりました。
折り鶴をつけた黄色の反物に紋白蝶が飛んできて白っぽいウンチを落として飛び去りました。
仕事に追われる忙しい日々にも、ほのぼのとした趣味の時間があります。
⑩本蒸し作業―地染め後60分の蒸しで染料を生地に定着させます。
?水洗い(友禅流し)、糊や余分の染料を水で洗い流す作業。
水が澄んでくると鮮やかに染め上がった美しい姿をみせます。
感動の瞬間、至福のひと時です。
?湯のし、生地の丈や幅を整え、蒸気によって絹の光沢が蘇る作業。
?仕上げ、私的には失敗箇所の欠点補正、お化粧直しです。
思わぬ厚化粧になって、柔らかな染めの雰囲気をこわすことがあります。
大胆に失敗を繰り返しながら、着物、帯、額等100点以上の作品を楽しんできました。
時代に逆行した物作りと思いつつ、ほとんど失われようとしている手仕事の珠玉のような尊さを感謝しております。
学生実習に思う
田 中 治 美(大19)
京都は「学生はんの街」と昔から巷の常識。
町内のそこそこ空間、時間の許すおうち(家のこと)では、三食付きの学生はん優待処が普通に見受けられる。
(つまり、家族待遇の下宿)この地では日本の未来といったらおおげさだが、金の卵をゆっくりとあたたかく育てる土壌が脈々と受けつがれている。
そこで、薬科大学6年制の時代に入り、2.5ヶ月の学生実習が始まると、俄然京都人としては「学生はんの街」の人間となる。
1~2週間では残念ながらホンのひとときの授業のようなものであるが、2.5ヶ月になると少し趣きが異なる。
つまりその学生の将来に関わる責任めいたものを自然、意識するようになる。
?啄同時とまではいかなくても、求め、求められるものを理解するあいだがらが互いにできる予感がする。
ふり返って自分自身が学生だった頃を思い返すと、これははなはだ肌寒い。
何かに燃え、何かを志していたことは記憶の片スミにあるけれど、社会の先輩に会い、その人のようになりたいという啓示めいた記憶はホンのひとにぎり。
邂逅があまりにもせつなせつなだったかも知れないが、当時、長期の実習があれば、一足飛びの社会開眼ができたかも知れない。
実務を知る為の実習なら、見学+ロールプレイングに毛のはえた程度でことはすむ。
しかしながら、「人生の縮図」を意識する為にはこの11週間の実習は必要にして必要な(十分ではないが...)条件となるのではないか。
毎日の体験を通じ、学生本人の学外授業は日々充実していくが、そこへ先輩薬剤師としてのコメント、会話がその都度+されるのであれば、(例としての交換日誌...)考え方の巾も広がり社会には臨機応変に、いろいろな"ものさし"があることが実感としてわかるようになる。
これこそ人生勉強であり「この場」も人生の縮図であることが、からだで分かるのではないだろうか。
仏教の言葉に「まのあたりに師を見る。
これ人に会う也」とある。
先達(≒師)とは人の先に立ち、導くもの。
先に生まれてただ経験を伝授するものとは異なる。
実習生にとって、実務実習担当者を含め薬局という場が、人生を垣間見せてくれる「先達」となりますよう願う次第であります。
ブロックバスターの席巻が日本の医薬分業を推進した
神 谷 明 良(大21)
昨今、医薬分業の流れが広く知られるようになったと思われます。
今日の高齢化社会を支えているもののひとつに錠剤など経口剤に依存したセルフメディケーション(薬剤師の服薬指導の下、自分自身で服薬がきちんとできる)があると思われます。
それまでは病気だと思われていなかった高脂血症や高血圧などの薬が、現在の高齢者社会では寿命さえ影響を及ぼす重要な薬となってきたのです。
2010年問題という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。
コレステロール低下薬とか血圧降下剤に代表されるブロックバスターと言われる大型医薬品の特許が2010年を挟んで2,3年の間に切れ、その企業は特許権を失い、経営が脅かされるという状況を言っているわけです。
ブロックバスターとなった医薬品は、いわゆる生活習慣病薬が多く、圧倒的に大きな市場であると同時に、多くが経口製剤であることから、医師の処方に従い、薬剤師の指導の下、患者自身が指導通りに服薬できるセルフメディケーションの仕組みが近年広く構築さ れてきました。
特許が切れた後はジェネリックメーカーが患者により服薬しやすい製剤を揃え、売上げを確実に伸ばしてきました。
日本政府の医療費の中の薬剤費抑制施策とあいまって、ジェネリック医薬品に対する需要がますます増大してきました。
事実、大手と言われるジェネリックメーカーはここ数年毎年10%を超す売上げと利益を上げてきています。
新薬の開発は、既存の同種の医薬品より優る有効性が求められ、かつ安全性の厳しい審査のために、膨大な費用と承認までに8年も9年もかかることは稀ではありません。
申請手続きがICHと呼ばれる国際整合性の中で、迅速化されてきたにもかかわらず、大型医薬品の開発は極めて少なくなっているのです。
新薬開発を目指す先発メーカーはグローバル企業に限らず、国内の企業もここ10年くらいに亘って、経営効率を高めるために企業統合を図ってきました。
ファイザーも20数年まえの8社も9社もが一緒になった企業なのです。
国内も第一三共、アステラス、大日本住友などが統合してきました。
競争力が必須なのです。
日本の薬価改定は、皆保険制度を維持していく上で、医療費抑制に大きく貢献していると思いますが、開発メーカーにとってはとても厳しいことです。
2年ごとの改定のたびに利益が大幅に削り取られていきます。
新薬開発には投資が不可欠です。
昨年から新薬開発を促進するという名目で、新たに「新薬創出加算」という薬価改定のルールが試験的に導入されたところです。
ともあれ、いくつかのブロックバスターが世間を席巻して以来、薬剤師の役割が広く知られるようになったと思うのはひとりよがりでしょうか。